宍塚の寺社(今はない寺社)
会の歴史部会で、「聞き書き里山の暮らし」「続聞き書き里山の暮らし」に続き、昨年末に歴史マップ「里山の歴史を訪ねる散歩道——土浦市宍塚」(以下、「散歩道」という。)を発行しました。
これらの、紙面には書ききれない詳細があったり、掲載できなかったことなどがあります。学術的にきちんとというより、とりあえず、素材を伝えていければと思いますので、皆さんのご協力をお願いしたいところです。
さて、「散歩道」では、いくつかのコースを設けていますが、寺社、石碑、石塔探訪のコースのうち、寺社からはじめたいと思います。
現在、宍塚には、寺社としては、般若寺と鹿島神社の1寺1社が残っています。
しかし、江戸時代・天保〜弘化(1830〜1846)の頃の文書(県方集覧=土浦藩の藩政要覧に相当)によると、般若寺、延命院、東福院、大宝院(山伏)のほか、宮5箇所(鹿島、白山権現、天王、大六天、熊野)、堂4箇所(釈迦堂、地蔵、観音、十王堂)となっています。
明治時代の明治2年(1869)の文書(宍塚村明細書上帳)では、寺は、般若寺のみ(延命院、東福院は廃寺、大宝院は不明)ですが、神社は、鹿島神社のほか、白山大神、愛宕宮、八坂大神、大六天神、熊野大神、吾妻大神、神明大神、天満天神、稲荷大神、月読社があったとされます。神社の数が増えていますが、明治はじめの神仏分離によって、神仏混渚していたものや小さな石祠についても、神社としての形式を整えたことによると考えられます。
その後、熊野、吾妻、稲荷、月読の各社は鹿島神社の境内社となり、さらに、明治末期の神社合祀により、皇産霊神社(大六天神)、八坂神社が、鹿島神社に合祀されています。
さて、廃寺となった延命院や東福院などや合祀された神社は、以前はどこにあったのでしょう。合祀されなかった、白山大神、愛宕宮、神明大神、天満天神はどうなったのでしょう?現地を見たり、字名や地名、伝承の中を探したりすると、その痕跡が見つかることがあります。これが面白いんですよ(独りよがりなのですが)。ちょっと、探して見ましょう。
宍塚にはたくさんの古墳があります。そこには、石造物や祠が建っていたりします。例えば、上郷の大白山(宍塚古墳群2号墳)と呼ばれる丘の古墳のそばには、注連縄を張ったところがあります。
ここは、白山神社の跡とされ、礎石が名残をとどめています。古老の伝承では、その昔、源行家がご分神を持ってきたそうです。江戸時代の絵図にも白山との記載があり、昭和40年代半ばまで小祠があり、信仰されていたようです。いまでは、跡だけですが、祖先からのお祀りは続けられています。さて、鹿島神社に合祀されなかったのはなぜでしょうか?
大六天神社(皇産霊神社)については、明治末に鹿島神社に合祀されていますが、実際には、昭和40年代半ばまで、宍塚古墳群24号墳上に小祠が残っていたようです。その後、霞ヶ浦の埋め立てで土取りが行われ、古墳もろとも滅失してしまっています。デーロクテンなどの地名が残されています。
熊野神社については、これも、宍塚古墳群の13号墳あたりにあったとの伝承があり、ゲンパチマエなどの地名が伝承とともに残されています。ほかに、石造物でも見つかるとよいのですが。
吾妻神社についてはアズマの地名が残されています。
神明大神や天満天神については、石祠などが残されています。そのうち神明大神については、場所がすこし移されていますが、民地の中で、いまも祀られています。
お寺のうち、延命院については、伝承が残されており、聞き書きでも覚えている方もいらっしゃるようですが、愛宕神社の話と混ざっているようです。
いまのところ、東福院や大宝院は手掛かりがありません。手掛かり募集中です。