2019年1月31日木曜日

幻の大寺・般若寺(五斗蒔2019年2月号)

 宍塚の集落には、古墳が残っていたり、江戸時代の面影が残る屋敷があったり、また、石碑、石像なども多く、タイムトリップを楽しめます。

 その中でも、般若寺は、寺伝では、平安時代に創建されたと伝えますが、すくなくとも鎌倉時代に遡る由緒あるお寺です。


 鎌倉時代中期には、五重塔など七堂伽藍をそなえた大寺であったものが、戦国時代に焼失して、江戸時代に再建されたものです。

 いまは、滅失していますが、江戸時代に再建された釈迦堂は、音羽の護国寺から、桜川を通って、移築されたものといわれており、それぞれ、当時の権力者とのつながりが想像されます。

(往時の釈迦堂)

(般若寺所蔵の絵図 江戸時代末頃の般若寺)

 寺域からは、五重塔の瓦が発掘され、鎌倉時代に設置された寺域を示す結界石も残されています。この結界石もそうですが、般若寺には今に伝わる文化財が多く残っており、国指定の重要文化財1、県指定文化財3、市指定文化財5があります。

 どれか一つということになると、やはり、国指定重要文化財の銅鐘ですね。鎌倉時代の1275年に、鎌倉大仏の鋳造にもかかわった丹治久友の作で、文永の役に際して、執権北条氏の支援の下に造られたといわれています。高さ115cm、外径68cmで、結構大きいものです。
 すでに、江戸時代、寛政の改革で有名な時の老中松平定信がまとめた「集古十種」にも紹介されている由緒のある銅鐘です。

銅鐘

 文化財指定はありませんが、個人的は、自然石に彫られた大日如来、いわゆる鼻の大きな大日さまが好みです。江戸寛永期数年の間のもので、つくば市を中心に見られる石仏。時期と地域が限定されているものの一つです。特定の作者が造ったものなのでしょうね。なんとなく、モアイ象にも似ているような気がします。



By yamasanae



2014年2月28日金曜日

宍塚の今はない寺社①(五斗蒔2014年3月号)

宍塚の寺社(今はない寺社)

 会の歴史部会で、「聞き書き里山の暮らし」「続聞き書き里山の暮らし」に続き、昨年末に歴史マップ「里山の歴史を訪ねる散歩道——土浦市宍塚」(以下、「散歩道」という。)を発行しました。

 これらの、紙面には書ききれない詳細があったり、掲載できなかったことなどがあります。学術的にきちんとというより、とりあえず、素材を伝えていければと思いますので、皆さんのご協力をお願いしたいところです。

 さて、「散歩道」では、いくつかのコースを設けていますが、寺社、石碑、石塔探訪のコースのうち、寺社からはじめたいと思います。



 現在、宍塚には、寺社としては、般若寺と鹿島神社の1寺1社が残っています。

 しかし、江戸時代・天保〜弘化(1830〜1846)の頃の文書(県方集覧=土浦藩の藩政要覧に相当)によると、般若寺、延命院、東福院、大宝院(山伏)のほか、宮5箇所(鹿島、白山権現、天王、大六天、熊野)、堂4箇所(釈迦堂、地蔵、観音、十王堂)となっています。

 明治時代の明治2年(1869)の文書(宍塚村明細書上帳)では、寺は、般若寺のみ(延命院、東福院は廃寺、大宝院は不明)ですが、神社は、鹿島神社のほか、白山大神、愛宕宮、八坂大神、大六天神、熊野大神、吾妻大神、神明大神、天満天神、稲荷大神、月読社があったとされます。神社の数が増えていますが、明治はじめの神仏分離によって、神仏混渚していたものや小さな石祠についても、神社としての形式を整えたことによると考えられます。

 その後、熊野、吾妻、稲荷、月読の各社は鹿島神社の境内社となり、さらに、明治末期の神社合祀により、皇産霊神社(大六天神)、八坂神社が、鹿島神社に合祀されています。

 さて、廃寺となった延命院や東福院などや合祀された神社は、以前はどこにあったのでしょう。合祀されなかった、白山大神、愛宕宮、神明大神、天満天神はどうなったのでしょう?現地を見たり、字名や地名、伝承の中を探したりすると、その痕跡が見つかることがあります。これが面白いんですよ(独りよがりなのですが)。ちょっと、探して見ましょう。

 宍塚にはたくさんの古墳があります。そこには、石造物や祠が建っていたりします。例えば、上郷の大白山(宍塚古墳群2号墳)と呼ばれる丘の古墳のそばには、注連縄を張ったところがあります。

 ここは、白山神社の跡とされ、礎石が名残をとどめています。古老の伝承では、その昔、源行家がご分神を持ってきたそうです。江戸時代の絵図にも白山との記載があり、昭和40年代半ばまで小祠があり、信仰されていたようです。いまでは、跡だけですが、祖先からのお祀りは続けられています。さて、鹿島神社に合祀されなかったのはなぜでしょうか?

 大六天神社(皇産霊神社)については、明治末に鹿島神社に合祀されていますが、実際には、昭和40年代半ばまで、宍塚古墳群24号墳上に小祠が残っていたようです。その後、霞ヶ浦の埋め立てで土取りが行われ、古墳もろとも滅失してしまっています。デーロクテンなどの地名が残されています。

 熊野神社については、これも、宍塚古墳群の13号墳あたりにあったとの伝承があり、ゲンパチマエなどの地名が伝承とともに残されています。ほかに、石造物でも見つかるとよいのですが。

 吾妻神社についてはアズマの地名が残されています。

 神明大神や天満天神については、石祠などが残されています。そのうち神明大神については、場所がすこし移されていますが、民地の中で、いまも祀られています。

 お寺のうち、延命院については、伝承が残されており、聞き書きでも覚えている方もいらっしゃるようですが、愛宕神社の話と混ざっているようです。

いまのところ、東福院や大宝院は手掛かりがありません。手掛かり募集中です。




幻の大寺・般若寺(五斗蒔2019年2月号)

 宍塚の集落には、古墳が残っていたり、江戸時代の面影が残る屋敷があったり、また、石碑、石像なども多く、タイムトリップを楽しめます。  その中でも、般若寺は、寺伝では、平安時代に創建されたと伝えますが、すくなくとも鎌倉時代に遡る由緒あるお寺です。  鎌倉時代中期には、五重塔など七堂...